ビジョナリーな人たち  富和鋳造株式会社  飛高利美 吉田秀夫

2012-10-25

後援:観光庁
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飛高利美 富和鋳造株式会社 代表取締役社長

吉田秀夫 富和鋳造株式会社 常務取締役工場長

日本経済を支える 川口鋳物の火を消すな

飛高利美 (写真左)

昭和33年、家業の鋳物製造会社 であった富和鋳造(株)入社。平成8 年、実兄が亡くなり、会社を引き継ぐ 形で代表取締役社長に就任。

吉田秀夫 (写真右)

平成9年に富和鋳造(株)入社。 平成21年、厚生労働省より『手込 造型工』として現代の名工の表彰 を受ける。現・常務取締役工場長。

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昭和 37 年、『キューポラのある街』が公開された頃、 2人の男は川口鋳物の街で汗を流していた。

 鍋、釜、水道の蛇口からマンホール、そして自動車のエンジンまで、 生活を支える鋳物の技術を身につけ、磨き、逞しく生きていた。

そして平成時代、鋳物職人2人は邂逅する。

富和鋳造(株)、飛高利美社長と吉田秀夫工場長。 2人で勝ち取った『現代の名工』の称号。

技術を次に伝えるべく、今日も「鋳物の川口」で汗を流す。

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夏の暑さも飛び散る火花も 鉄の気合と誇りで乗り切る現場

昭和30年代、川口は映画『キューポラのあ る街』の舞台として有名になった。「キュー ポラ」とは、金属の溶解炉のことである。江戸時代になって急速に発展した川口の鋳 物業は、鍋や釜などの日用品から、幕府の大 砲や砲弾の鋳造が行われていた。その後、明 治時代の富国強兵政策の需要に応え、国の基 幹産業を支えてきた。

「荒川周辺の砂が、鋳物を造るために適し ているからこの産業が発達したといわれるけ れど、江戸からのちょうどいい距離感と、荒 川の水利が鋳物を運ぶために適していたとい う説のほうが説得力がある。鋳物は重いから ね」

そう話すのは、富和鋳造株式会社代表取締 役の飛高利美さんである。

富和鋳造で製造するものは、自動車用金型 から印刷用機械、板金プレス機械、油圧機械 など。プレス機械にいたっては、本体だけで 22ト ン 、 総 重 量 70ト ン を 超 え る 機 械 で あ る 。 主力は上下水道のバルブだが、「公共用の大 型バルブが得意」という。

工場に足を踏み入れると何もかもが大型で ダイナミックである。炉の中に煮えたぎる鉄 を巨大なトリベに注ぐと、クレーンが運んで 型の中に流しこむ。火花を散らし注ぎ込まれ るモノはまさにマグマ。夏の盛りに作業場の 温度は40〜50度にもなるという。

「熱くはないですか?」と訪ねると「気合だね」 とニヤリと笑みを浮かべたのは、工場長の吉 田秀夫さん。平成21年に『現代の名工』の表 彰を受けた匠である。

富和鋳造の創業は昭和21年、吉田工場長が この会社に入社したのは平成9年。それまで 叔父さんの鋳物製造会社で働いていた吉田さ んに声をかけたのが飛高社長だった。

「吉田さんのところの社長は真面目で几帳 面な人でね。親を見れば子どもがわかるよう に、社長を見れば社員がわかる。その会社を 閉めることになったとき、そこで真面目に働 いていた吉田さんがウチに来てくれたら安泰 だと思ったんですよ。私は何度も叔父さんの 社長のところに出入りしていたのに、それま で吉田さんとは面識がなかった。君、モグリ だろう? というくらいにね(笑)。でも吉 田さんに1、2回会って、この人なら現場も きちんとまとめてくれるだろうという直感が あったんだ」と飛高社長。

「私は川口の幸町一丁目で生まれ、学校を 卒業してからずっと鋳物の世界で働いてきま した。家の周りは全部鋳物工場という中でね。  昔の職人たちは、『賞状も資格もいらねえよ、 できりゃいいだろ』という世界だったけれど、 今の時代、そうはいかない。職人たちを指導 するためには『俺はできるんだ』と言うだけ じゃダメなんです。だからいろいろな講習会 にも出させてもらって、資格も取得しました。 この会社に入ってから、たくさんのことを教 わりましたよ」

飛高社長との出会いなくしては、『現代の 名工』の表彰もなかったと謙遜する吉田工場 長。9歳違いのお二人は、息がぴったり合っ ているのだ。

後に続く職人たちに向ける 温かな目と手

川口の鋳物が最も栄えたのは昭和35、36年、 鋳物工場は約700社を数えた。当時は新潟 や青森、宮城からも集団就職の青年たちがや ってきて、年間50〜60人が働いていた。

「私も昭和33年に学校を卒業してから、学 問なんかいいから働けと言われて社員寮に10 年いました。自分の家の会社の社員寮にね。 そこでは15歳から20歳くらいの養成工が一緒 に生活し一緒に飯を食い、現場で職人技を身 につけました。機械の操作はある程度勉強す ればできるけど、手作業の部分はいくら学問 的に優れていてもダメ」と飛高社長は言う。鋳物の製造は、機械による造型と、「手込め」 と呼ばれる造型がある。「手込め」はまさに 職人技。型がなくとも、経験と感覚で製品を 造る、繊細な作業なのだ。

「吉田さんが優れていたのは勉強熱心で柔 軟性があったこと。ずっと現場で働いてきた 人に、講習会に出ろなんて言ったら普通は嫌 でしょう? 私だって嫌だと言いますよ。で も吉田さんはひとつひとつ乗り越えてきた。 さらに人よりも器用で負けず嫌いだった。そ こで技術に磨きがかかったんだね。私たちはいい出会いをしたと思いますよ」と飛高社長。

テレビの番組で、大型の鉄球を造ってほし いという発注を受けた。頑丈なバリケードを、 富和鋳造が制作した5トンの鉄球が破壊する ことができるかどうかという対決企画だった。

「テレビ局の要求は、完全なる球体でした。 でも完全な球体では吊り上げる部分がない。 しかもバリケードにぶちあてたとき、最大の 破壊力が伝わるような中身にしなければなら ない。ではどうするか?というときに、吉田 さんは長年の経験の中からアイデアを出すワ ケです。そして技術力を持って実現する。そ こが『現代の名工』の底力だね」と飛高社長が話す横で、吉田さんは静かに笑っている。

現在、川口市で鋳物業を営む企業は約7 0社。 最盛期の10分の1である。「手込め」の職人 技を持つ人は、現在64歳の吉田さんがギリギ リ最後の世代ではないかという憂いもある。 しかし吉田工場長は言う。

「新しい機械が出てくると気になるね。我々 もどんどん新しい技術を勉強しなきゃ。それ に最近では、大学で専門の勉強をしたヤツも 現場に来てくれるようになったんだよ」 嬉しそうに話す匠の目は未来に向いていた。 川口の鋳物の火は決して消えないのである。

大きなトリベに入った1500℃ の液体を型に注ぎ込む。

とた んに火花が散る。

「それでも 今まで大きな怪我をした者は いません」

と飛高社長。

命が けの作業だからこそ、繊細な 心が必要とされる現場である。

◎木村の視点

フジテレビの「ほこ× たて」という番組で、「地 球最強の壁」を打ち破っ た鉄球を造ったのが、こ の富和鋳造である。大き さは浅間山荘で使われた 鉄球の何と5 倍だという から凄い。

それだけの技 術力があると見込まれて オファーが来たのだろう。 自らも 18 歳から 10 年間、 養成工として技術を習得した飛高社長、吉田さん というかけがえのない パートナーを得て、自分 の会社のみならず業界の 地位向上と発展のため奔 走する日々である。それ にしても、男らしい職場 である。皆が黙々と己が 仕事に励んでいる。

それ に比べれば自分は何とや わな仕事をしているんだ ろう。そんな思いに駆られながら、飛び散る火花 の前に平然と立つ二人を 遠巻きに眺めていた。

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