にっぽん日和

市長からのメッセージ 福井県 坂井市長 坂本 憲男

2013-06-10

後援:観光庁
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山から海から平野から
自然の恵みと人の心の豊かさが
坂井市の資源です

坂井市長 坂本 憲男ここに一つのデータがあります。東洋経済新報社が発表した「日本のいい街2012」における裕福な街ランキングで全国総合4位となったのが坂井市です。指標となったのは納税者1人あたり所得、持ち家比率、住宅延べ面積、平均地価、1000人あたりの生活保護受給者数、小売業年間販売額の6項目です。ちなみに1位は神奈川県鎌倉市、2位は東京都港区、3位は兵庫県芦屋市でした。
全国でも有名な「裕福な街」に続いて坂井市が4位という結果に、ここに住む私たち自身が驚いているのですが、これは心の豊かさではないかと自負しています。

坂井市は2006年に三国町、丸岡町、春江町、坂井町が合併し、山から海までの自然の恩恵を受ける市となりました。観光資源も豊富で景勝地である東尋坊や、日本100名城にも指定された丸岡城、そして水中花火が豪華な三国の花火などがあり、年間380万人の方々が訪れます。それでも東尋坊が坂井市にあることが全国的に知られていないのは、ここに住む人々が控えめでのんびりした
気質であるからではないかと私は考えます。
こんなエピソードがあります。ブランド米である「コシヒカリ」は、実は丸岡町出身の石墨慶一郎博士が長年の研究の末、開発したお米の品種です。現在は新潟県産というイメージが強いのですが、坂井市の人々は「手柄を取られた」と言うこともありません。4
つの町が合併した市ですから、違う文化や価値観を持った人々が綱引きをしていてはうまくいかないことを知っているのです。

そこで現在は人々が協力しあい、子どもたちの未来を育む事業に力を入れています。まずは子どもたちの安全を確保するために、平成27年度完了を目指して、小中学校の耐震工事を進め、すでに7割の工事に着手しています。

また、永平寺から続く国道364号線にある「竹田メロディーパーク」には、30分に1回、メロディーチャイムが響き渡ります。これは春江工業高校の生徒たちが、自分たちの学んだ技術を駆使して制作したものです。

さらに九頭竜川河口のテクノポートスタジアムは、2002年日韓共催ワールドカップでメキシコチームがキャンプを行った本格的なスタジアムですが、坂井市では全国区で活躍する丸岡高校サッカー部を始めとして、多くのサッカー少年たちが心身を鍛え、夢を育んでいます。

多くの方々に坂井市の良さを知って欲しいと考えますが、その一番の良さは、ここに住む人々の心の豊かさであると宣言したいと思います

坂井市福井県 坂井市

【面積】209.91km²

【人口】94,010 人

【世帯数】30,225 世帯
(平成25 年4 月1日現在)

福井県の全国ランキング

幸福度 全国第1位
社長輩出数 全国第1位
事業所数 全国第1位
有効求人倍率 全国第1位
夫婦共働き世帯比率 全国第1位
出典:日本銀行福井事務所(平成23年11月現在)

越前織

越前織坂井市丸岡は織物の一大産地で、ワッペンやスポーツ用ネームとして用いられる「織ネーム」は需要が高まっています。また、コンピュータで図柄処理し織物と
して描画する「越前織」も観光の土産用に作っています。越前織はきめ細かい風合いが特徴で、人物や色鮮やかで複雑な花などを織物で再現できるようになり、名刺や賞状、しおり等様々な商品として実用化されています。丸岡では、織物の提供から、印刷(織り込み)までを行っています。

ファイブエル ミシラン ヨーロッパ軒総本店

2013-06-08

後援:観光庁
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ソースカツ丼ヨーロッパ軒総本店

ドイツからやってきたウスターソースが

日本のカツ丼を彩る
ソースカツ丼

福井のカツ丼は「ソースカツ丼」が定番と聞いて、大正2年創業のヨーロッパ軒総本店をたずねる。

厨房に入れていただいて驚く。カツを載せる前の丼ごはんにウスターソースをベースとした秘伝のタレをかけ、カツもタレに浸すことに。このカツ丼の主役はウスターソースなのだ。

三代目の店主、髙畠範行さんは言う。

「ウチのソースカツ丼は、創業者、つまり私の祖父がドイツで覚えたウスターソースを日本の方に美味しく食べていただきたいと考えて作りました。創業当時、ウスターソースは高級な西洋料理店でしか扱っていなかったそうです。それを庶民の方にも食べていただくには、どんぶり飯が一番受け入れやすいだろうということで、カツ丼になったんですね」

創業者の髙畠増太郎氏は、やんちゃな人だったという。料理人として修業を積んでいたが、あるとき板長と喧嘩して店を飛び出す。そのときちょうど、ドイツの日本食レストランで和食職人を募集していることを知り思い切って渡欧した。そこで出会った洋食のコックさんに手ほどきを受けて誕生したのが、ヨーロッパ軒オリジナルのウスターソースである。

さらにパン粉や、カツを切る大きさにもこだわりがある。

「パン粉は油を吸いにくいように、非常に細かい粒子のものを使用しています。カツは肉汁が出てしまわないように揚げたあとでカットはしません。厚さは8ミリで口に入れやすい大きさなんです」
「やんちゃな創業者」とはギャップを感じるきめ細かい工夫である。一口噛むと感じる甘みと酸味の繊細なハーモニー。丼の中で和と洋が融合しているのだ。

ヨーロッパ軒総本店ヨーロッパ軒総本店

福井市順化1-7-4

【T E L 】0776-21-4681

【営業時間】11:00~20:00

【定休日】火曜日

ソースカツ丼
ソースカツ丼 カツ丼セット 1050円

ヨーロッパ軒総本店ヨーロッパ軒総本店

ビジョナリーな人たち  三国祭囃子継承者 四代目 村田ひとみ 

2013-06-07

後援:観光庁
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働く女性特集

三国祭囃子継承者
四代目の描く夢

昔からの決まり事や
難しい人間関係がある伝統芸能の世界。
「女だてらに」と言われながら
三国祭囃子の継承者として立った
村田ひとみさんは、
「人に任せられないからしょうがない」と笑う。
朗らかな語り口は、
三国祭囃子の明るさそのものである。

 三国祭囃子継承者 四代目 村田ひとみ 

村田ひとみ(むらた ひとみ)
昭和43年、三国町生まれ。三国節継承者の家に生まれ、14年前に四代目を継いだ。家業は石材店を営み、20歳のときに結婚したご主人が継いで代表を務めている。3人の男の子の子育て、家事、石材店の仕事もすべて「人に任せられない」と、自らこなしてきた。


三国地域の中には細かく分かれた区があり、毎年、区が持ち回りでお祭りを仕切っている。そこでお囃子も区によって違うという。
この三国祭囃子を伝承する家に生まれ、四代目を継いだのが村田ひとみさんである。

「父の代では、三味線や笛は父のお弟子さんで、セミプロの方々にお願いしていたんです。でも14年前、父が亡くなったとき、その人たちに頼むのではなく、自分でお弟子さんを育ててやっていこうと決心しました。そこでお葬式のときに宣言したんです。『私が継承してやっていく』と」

当時、村田さんは30代。「こんな若い女に何ができるんや?」と言われながらも、闘うことをやめなかったという。

「芸事って、足の引っ張り合いなんです。私が祭囃子の継承者として立てば、必ず足を引っ張ろうとする人がいる。だから父の具合が悪くなった頃から、自分ひとりでやっていかなければならないんだろうな、という気持ちがありました。それでお葬式のときの宣言になったワケです。父が亡くなってからは必死でしたね。『女でいいですか?』と言いながら、男のように闘って来ましたよ」

そう言って朗らかに笑う村田さんからは、悲愴感も暗さも微塵も感じられない。

「当時私は30歳とちょっとでしたが、30年間ずっと聴いてきたことってすごいですね。三国祭りのお囃子の曲は、各区がそれぞれ3曲持っていて、26区が毎年かわりばんこで曲を演奏するのですが、私、その全部の曲を覚えていたんです。それには自分でも驚きました」

そこからは記憶もないくらいの忙しさだったという。

村田さんは20歳で結婚し、すぐに3 人の子どもをもうけている。三国祭囃子の継承者となったとき、猛然と三味線や笛のお稽古に通い始めるのだが、当然、3人の子どもも一緒に連れて行かなければならない。お稽古が終わるのは夜の10時を回る頃である。そこで稽古場で寝込んでしまった子どもたちを起こして家に帰る毎日である。

「芸事って、若い頃から何十年も練習して、技術を修得するものですけれど、父が言ったんです。『お前の呼吸でやればいい』と。 芸事というのは『間』が大切であり、それは個人個人で違うものなんですね。だから人が何を言おうと、私の『間』でやっていけばいいということだったんです。だから三国祭囃子も、私の『間』を作らなあかんということで、今までやってきました」

謡い、踊りながらまちを練り歩く
「三國湊帯のまち流し」実現

村田さんが次に取り組んだのは口伝継承の三国節を、譜面におこすことだった。そして公民館で三国節を伝承する講座を立ち上げる。さらには地元小学校の生徒たちにも、三国節を教えはじめたのである。
「三国の小学校では、運動会の最後に三国節を踊るんです。それまでは録音されたお囃子を流して踊っていたのですが、子どもたちが自分で演奏した方が絶対にいいと思ったんです。

校長先生に言いました。『一緒に三国節を継承しましょう、だから三味線10挺買ってください』って(笑)。その子たちが大人になって、今、私のところに来てくれて、一緒に三国節をやってくれているんですよ。

三国祭囃子楽器の腕前をプロ級にしたいのなら、みんな私のところなんかには来ないでしょう。もっと上手な人に習ったらいいんです。でも今、一緒にやってくれている人たち、特に子どもたちに三味線や笛をやって欲しいのは、地域との繋がりを持って三国の文化を継承して欲しいから。私、自分のような三国馬鹿を育てたいんです。なぜそんなに三国が好きなのかと聞かれたら、うまく説明はできないんですけどね。ここに住む人たちが、醸し出すにおいが好きなのかな」

今、村田さんは子どもの頃からの夢を形にしつつある。それは「三國湊帯のまち流し」の実現である。

「『帯のまち流し』は、昔は夏にやっていたそうなんです。誰が呼びかけるともなく、まちの人たちが三国節を踊りながら練り歩き、三国の浜に人々が集まって踊りの輪ができていたというんです。私は子どもの頃から『帯のまち流し』を実現させるのが夢だったんですね。

そんな夢をいろいろな人に語っていたら、町おこしの一般社団法人 三國會所の方が、是非やりましょうと言ってくれたんです。でもそこでも私、言ったんです『私にやらせて下さい』と。どんなことでも人に任せられない性分なんですよね(笑)。

今年で『帯のまち流し』は4 回目になるのですが、昨年は700人の方が集まってくれました。ゆくゆくは、『おわら風の盆』のようなものにしたいんです。私はこれをイベントとは考えていません。三国節が本当に好きな人たちが関わることが成功につながるはず。とにかく語って語って、思いを伝えることが私のやり方です」

誰にも任せられないと頑張ることを、人は苦労性と呼ぶかも知れない。しかしひとたび三味線を持てば、奏でる音は力強い。このまちがどんな困難に直面しても、謡い、踊りながら乗り切っていくのだろう。

◎木村の視点

木村の視点木村の視点今回ご紹介するのは、伝統ある三国節を父から受け継ぎ、更に発展させた人と、がんを克服し、三国節にも登場する海女として里海活動に取り組む元気印の女性のお二人である。

データによれば、福井女性の性格は「気が強くて、負けず嫌いで辛抱強い。積極的で意外と目立ちたがり。自立志向が強く、妙な甘えもない。

逆にしっかりしすぎて、スキがないくらい」とあるが、まさにその典型のような人たちである。おまけに明るくて自然体。
もしかしたら、自然という字は「自らを燃やす」と書くのかと勘違いをしたくらいだ。元気いっぱいのお二人に話を聞くうち、ふと、この人たちを支える旦那さんって一体どんな人なんだろうと、顔を見てみたくなった。

ビジョナリーな人たち 越前みくに湊 海女        大井七世美

2013-06-05

後援:観光庁
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働く女性特集

バイタリティと明るさに感服し

49歳で海女になった女性の決意

弥生時代からあるという海女という仕事。

それは単なる『漁』ではなかった。

岩を動かし、藻を間引き、瀬を騒がして海を育てる海女は、海の生態系の一部なのだ。

海女文化があるのは、全世界の中で、日本と韓国だけだという。

40代でこの世界に飛び込み、海と生きることを決心した

女性の想いを聞いた。

越前みくに湊 海女 大井七世美

大井七世美(おおい なよみ)

昭和31年、三国町生まれ。大学の教育学部を中退し、その後サーフショップを営む。49歳で海女となり、漁村ライフスタイルの楽しさを伝授する集団『ザ・漁師`s』のメンバーでもある。

ご主人は東京で活躍するプランナーだったが、大井さんがガンになったことを機に、『漁師になる』と言って故郷の三国に帰郷した。


 

1997年1月、暖房用のC重油を積んだロシア船籍のナホトカ号が、島根県近海で沈没した。その船首は重油と共に福井県三国付近へ流れ着く。
海上では海上保安庁や海上自衛隊、地元民をはじめ、多くのボランティアの人々たちが油の回収作業にあたっていた。

まさにそのとき、三国の浜でサーフショップを営んでいた大井七世美さんも、回収作業を行った地元民の1人だった。

「重油流出のとき、三国の海は海女さんたちが岩のり漁の真っ最中だったんです。サーファーの私に海女さんたちは『なんちゃん、岩のりが油で汚れる! 海が死ぬ! 油を止めてくれ!』と泣き叫んでいる状態でした。

当時、サーファーはダイヤルQ2で波情報を得ていたので、それを使って日本中に「助けてください」と発信しました。すると日本中からボランティアの人たちがやってきて。漁業関係者、サーファー、ウインドサーファーなどと一緒に油の回収作業にあたったんです。

そのとき驚いたのは、海女さんたちのバイタリティです。それまで泣き叫んでいたのに、60代後半、70代の海女さんたちが、波に洗われる岩の上をピョンピョン渡り歩いて、普通の人が行けないような深いところまで行って、『兄ちゃんあぶないよ』なんて言ってるんです。しかも底抜けに明るかったんですね。

『なんちゃん、あんたらサーファーは海の上しか知らんやろ。あたしらいつもあんたらの下にいて、魚らと話してるんや。息するの忘れるほど楽しいわ』なんて言うのを聞いてたら、海女さんになりたいなと思いましたよ」

それから数年は、海女さんになりたい夢は忘れていたという。しかし7年前、七世美さんは乳がんを宣告された。それが海女さんになるきっかけとなったのだ。

「それまで私は相当、自分勝手な人生を送ってきたと思います。何も悔いはないはずなのに、人生のカウントダウンが始まってやり残したことは何だろう? と考えたとき、『そうだ、私、海女さんになりたかったんだ』と思ったんですね。

重油を回収しているとき、私たちサーファーは、くっそ〜ロシア船め! なんて歯噛みしているのに、一人の海女さんなんて『ロシアの人たちは暖房用の重油が流れてしまって、寒くないやろか』なんて言うんですよ。その器量の大きさって何だろう? と思ったんです。この人たちと海に潜っていたら、免疫細胞もたくさん生まれてきて、私のがんをやっつけてくれるような気がしたんです」

三国の浜で、海女という仕事は弥生時代からあったそうだ。一般的に思う海女の仕事は、サザエやアワビ、ワカメなどの漁である。しかし実のところ、海女の仕事は海を育て、守ることなのだという。

「たとえば岩が砂に埋もれてしまわないように、岩をひっくり返したり、張り付いた藻を取ったりする『人足』という仕事があります。岩の表面をキレイにすれば、そこに新しい海藻が付いて、魚が卵を産みに来るんです。サザエやアワビの稚貝を放流するのも海女の仕事ですし、稚貝の天敵であるヒトデを間引いたりもします。

科学的なことなど何もわからない時代から、代々海女たちは海を育ててきたんです。海女は海の生態系の一部となっていて、海女さんが動くことで瀬が育つんです。

私が海女になったとき、先輩の海女さんに言われましたよ。『どうせ何も獲れんやろ。それなら瀬を騒がしてこい』と。つまり人足の仕事をして来なさいということなんですね。そのようにして1年目、2年目、私の担当の岩には何もいませんでした。3年目、初めて発見したんですよ。アワビやらサザエやらがそこにいるのを」

里海を育てる活動

海女文化を世界文化遺産にする夢

海女であり、サーフショップも営むという二足のわらじを履く大井さん。子どもや年配の方にサーフィンを体験させる仕事をすることもある。
「3年前、全盲の方にサーフィンを教えました。目が見えないから、波の大きさがわからないかも知れないとも思ったのですが、『波の大きさは音でわかる』と言うんです。目が見えない分、他の四感が研ぎ澄まされているんですね。今年はその方に、自分の経験を多くの子どもたちに教えたいと言われて、30人くらいの目の不自由な子どもたちにスクールをする予定です。

またあるときは、心を病んだ子どもたちにサーフィンを教えたこともあります。1人の子は「サーフィンなんかつまらん、つまらん」と言いながら海に入っていくんですけど、じゃあやめるか? と思うとやめずに再び海に入っていくんです。

きっとその子にとって、『つまらん』という言葉は『楽しい』という意味だったんでしょうね。
私自身、海に潜って、自分の頭の上を小アジの群れがふわーっと飛んでいくのを見る時、群れの間から太陽が見えるとき、自分の中の免疫細胞が働いて、がん細胞をいい細胞に変えているのを実感できるんです」

現在、海女人口は日本全国で2000人ほど。最も多いのは三重県である。そこで2年前から三重県で、海女サミットなるものが開催されているという。

「全国の海女さんが集まって、どんな道具を使っているのかとか、どんなものが獲れるのかとか、情報交換をしているんです。ゆくゆくは海女文化をユネスコの世界文化遺産に登録したいというのが夢です。

なぜって、海女たちは、電気がなくても石油製品がなくても、災害が起きて大変な状況になっても、海を育て、海からいただくものを自分で製品にして食べていくことができるんですよ。すごい生命力ですよね。

私は今まで、何かに反発してきた人生でしたが、海女さんたちのオキテは『なるほどな』と思うことばかり。道理にかなっていると思います。従わなければいけないな、と、納得できるものなんです。この伝統を失ってはいけない、それが私の活動目標です」

三国節に海女を唄った歌詞がある。

「岩が屏風か 屏風が岩か 海女の口笛 東尋坊」。5月、東尋坊の海で一斉に海女が繰り出して漁をする。そのとき、海女たちが海から上がって深く呼吸する音が口笛のように聞こえるというのだ。その風景を、生きる知恵を、日本人は失ってはいけないと思うのだ。

ビジョナリーな人たちビジョナリーな人たち

(右)大井さんが営んでいるサーフショップの看板

福井の女性は働きもの

福井県は、働く女性の割合がとても高い県です。福井の女性はなぜこんなに働くのでしょうか?
女性が働いている理由の中で最も多いのが「家計を支えるため」ですが、その他の回答として、「生きがい」と答える女性が50代以降高い数値として出ています。福井の女性が、家事と仕事を両立させ、生き生きと仕事をしている状況を垣間みることができます。

福井

 

 

 

にっぽん日和 福井・坂井エリア

2013-06-04

後援:観光庁
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越前加賀海岸国定公園 東尋坊

越前加賀海岸国定公園 東尋坊

今から1200~1300 万年前の火山活動によって形成された景勝地。六角形の柱状の割れ目となった輝石安山岩が高さ20 数m、約1km
の広範囲にわたって広がります。このような大規模な柱状節理は世界に三箇所と言われ、地質学的にも非常に貴重であり、昭和10 年に国の天然記念物に指定されました。

東尋坊~雄島遊覧

ひとつひとつ名前を持つ奇岩は
神秘に満ちた自然のアート

東尋坊から海を望むと沖合に印象的な朱色の橋がかかっています。その先にあるのは雄島。東尋坊と同じく、柱状節理や板状節理が発達しています。島には方位磁石がずれるほどの磁界を持った『磁石岩』や、真水が湧く『瓜割の水』、源義経が兜を奉納したとされる『大湊神社』など、神秘に満ちた一周約1.5km の小島です。
遊覧船で巡ると高さ20 数mもある絶壁が見られる『大池』をはじめとして、『ハチの巣』『夫婦岩』『ライオン岩』など、自然が作り上げたアートを堪能することができます。

東尋坊観光遊覧船

東尋坊観光遊覧船東尋坊観光遊覧船

東尋坊観光遊覧船

東尋坊・雄島周遊コースは所要時間30 分。
代表取締役の小針悟さんは、三国町安島の出身で「中学、高校と、東尋坊を通って通学していた」と言います。東尋坊の歴史の語り部にして、船の安全を守る『風をよむ人』でもあります。

坂井市グルメ

海、山、大地の幸
うまいものたっぷり

海岸線から山間部まで細長い坂井市は、高価な越前ガニからここで生まれたコシヒカリまで、日本中の人が知っている食を堪能できます。

果物ならジューシーなスイカやメロン。海の幸なら、海女さんたちが獲って製造までを行う海産加工品があります。らっきょうや油揚げも欠かすことのできない名産品。迷える喜びを感じるグルメ市です。

辛味が醍醐味 おろしそば辛味が醍醐味 おろしそば

『盛安』は100 年以上続くお蕎麦屋さん。お店の佇まいからも歴史を感じます。お蕎麦は薮そばタイプの色白麺。大根おろしの絞り汁をたっぷり絞り、辛味が旨いつゆが特徴です。
そば処 盛安
坂井市三国町北本町3-2-30

ドイツからやってきたウスターソースが日本のカツ丼を彩るソースカツ丼ドイツからやってきたウスターソースが日本のカツ丼を彩るソースカツ丼

福井のカツ丼は「ソースカツ丼」が定番。丼ごはんとカツの両方に、ウスターソースをベースとした秘伝のタレをかける、タレが主役のカツ丼。一口噛むと感じる甘みと酸味の繊細なハーモニー。丼の中で和と洋が融合しているようです。
ヨーロッパ軒総本店

福井市順化1-7-4

焼き鯖寿司焼き鯖寿司

甘めの酢でしめた酢飯を、脂の乗った身の厚い鯖で包んだ『焼き鯖寿司』。お米はもちろんコシヒカリです。1本1200 円。高速道
路のサービスエリアや鉄道の駅、三国道の駅などで買い求めることができます。

熱く厚い! 油揚げ熱く厚い! 油揚げ

福井県は油揚げの消費量日本一。坂井市の竹田地区にある谷口屋の油揚げはサクサクでジューシー。
薬味をのせて「揚げステーキのタレ」をたっぷりかけていただきます。
谷口屋
坂井市丸岡町上竹田37-26-1

上品な銘菓 羽二重餅上品な銘菓 羽二重餅

越前羽二重をイメージして明治3 8 年に造られた羽二重餅。
もち米を蒸し、砂糖と水飴を加えて練り上げた、まさに絹織物のようなお餅です。
羽二重餅總本舗 松岡軒
福井市中央3-5-19

越前三国湊 三国祭

越前三国湊 三国祭

三国の町が熱く燃える
毎年5月の雄大な祭り

江戸時代から明治初期にかけて、北前船交易でにぎわった三国湊。毎年5 月19 日から21 日にかけて行われる三國神社のお祭り『三国祭』は、北陸三大祭のひとつです。

小さな町にはぎっしりと約500 軒以上もの露天が並び、5 月20 日の正午には、三國神社前に山車6基が奉納されます。

圧巻なのは山車を飾る高さ6m にも及ぶ武者人形。歌舞伎を題材にすることの多い武者人形の衣装も壮大にして豪華絢爛。明治時代には高さ10m を超えたと言われます。

三国祭の山車は全部で18 基。毎年、ローテーションでまわってくる当番区が山車をつくり、その豪華さを競うため、1 体の人形はその年限りだというのがなんとももったいないところですが、北前船で潤ったという、この町の裕福さを思わせる慣習です。

3 日間の祭り期間は、三国っ子が1 年中で最も熱く燃える瞬間。就職や就学で町の外に出ていた人たちも戻ってきます。大きな山車は露天商の屋根をハネ上げ、笛と三味線、太鼓のお囃子もにぎやかに、今年も盛大に祭りが開催されます。

三国祭のお囃子三国祭のお囃子

三国祭のお囃子は、三國神社の地固め作業のときに歌われたのがはじまりという三国節。

太鼓は町の子どもたちが、笛と三味線は大人たちが担当します。

三国祭囃子継承者、四代目の村田ひとみさん。
4月になると、お弟子さんたちと稽古に余念がありません。

三國神社三國神社

天文9 年(1540 年)、湊の住人が、川に流れてきた御神体を拾い上げ、この地にあった正智院に納めたのがはじまりと言われます。

「三國神社」と改称されたのは明治18 年。

三国祭は福井県の無形民俗文化財に指定されています。

平成25年 三国祭 5月19日(日)~21日(火)

第3回帯のまち流しフォトコンテスト審査結果 及び 入賞作品三國湊帯のまち流し

2009 年夏から始まった『三國湊帯のまち流し』。毎年9月(今年は8月31日)に開催します。

「帯の」の言葉は、三国節の歌詞「三国 三国と通う人ご苦労 帯の幅ほどある町を」に由来しています。参加団体・個人については踊りの審査が行われ、フォトコンテストや、まちの歴史を伝えるプレ演劇なども開催されています。当日は夕方頃から踊り手たちが町を流し、最後は観光客も巻き込んだ踊りの輪ができます。

第3 回
帯のまち流しフォトコンテスト 入賞作品
「揃いの着物でおどる」
吉川 悦郎 (坂井市三国町)
○c一般社団法人 三國會所

市長からのメッセージ 愛媛県 松山市長 野志 克仁

2013-06-01

後援:観光庁
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「いい、加減。まつやま」は
気候も、人の温かみも、先人の残した宝物も
ちょうどいいかげんにあるまちです松山市長 野志 克仁

松山には先人たちの残した宝がたくさんあります。築城410年を迎えた松山城しかり、国の重要文化財である道後温泉本館しかり。気候は温暖であり、新鮮な魚も豊富です。仕事で松山に赴任された方が、老後はこの町に住みたいと言っていただける町でもあります。一方、ずっと地方都市に住んでいると、「ウチの町には何もない」と思いがちです。そこで改めて、松山市の宝を見直し、輝かせるために、「たからみがき」のまちづくりを進めています。

「たからみがき」、この6文字にはそれぞれ意味があります。

まず「た」旅の魅力です。たとえば広島と愛媛・松山を結ぶエリアは「多島美」と表現される風光明媚な島々が心を和ませ、人々を魅了します。そこで広島と松山を結ぶ新たな観光ルートの商品化を進めています。

「か」「風早レトロタウン構想」です。風早とは、松山市北部に位置する地域で、大正から昭和中期までの様子を描いた、早坂暁氏の「花へんろ」の舞台にもなりました。そこで今なお残る、昭和をイメージさせてくれる資源を活かし、地域の活性化を進めています。

「ら」「愛ランド里島構想」です。松山の島しょ部は、農水産物などの地域資源に恵まれると共に、古くからの伝統文化が受け継がれる地域です。そこで「離島」ではなく「里島」と呼称し、「愛するふるさと」である「愛ランド」として、海上交通の利便性向上や定住の促進など、さまざまな課題解決に取り組んでいます。

「み」は松山市民の台所として親しまれてきた、「三津の朝市」の活性化です。

「が」街路整備の取り組みです。厚生労働省のデータによると、国民一人が1日3千歩歩けば、日本全体で年間約2700億円の医療費が削減できると示されています。街路を整備し、「歩いて暮らせるまち松山」を目指します。

最後に「き」は、前向きな気持ちです。来年改築120年を迎える道後温泉本館は、10余年かかる修復の時を迎えようとしています。これをマイナスと取るのではなく、私たちは新たな道後温泉誕生の〝時〞に立ち会うことができる時代に生まれたのだと考えます。これからのまちづくりで大事になるのは、このような前向きな気持ちだと思っています。

これら松山の多彩な魅力を全国へ発信するブランドメッセージとして『いい、加減。まつやま』を作りました。これはテキトーという意味ではあ りません。穏やかな気候や豊かな自然、心温かい人やおもてなし、そして小説「坊っちゃん」、「坂の上の雲」や俳句などの文化的風土のある「ちょうどいい暮らし」が、松山の価値であることを伝えたいという想いを込めました。この宝をみんなで磨き、将来にわたり持続発展する都市を目指し、市民の英知を結集していますので、『いい、加減。』な松山に期待してください。

shisyou松山市

【面積】429.05km²
【人口】517,024 人
【世帯数】227,989世帯

坂の上の雲ミュージアム

坂の上の雲ミュージアム

今回の松山市長との対談は坂の上の雲ミュージアムで行われました。
坂の上の雲ミュージアムの特徴

地下1階、地上4階建てのミュージアムは、建築家・安藤忠雄氏による設計のもと、平成19年4月28日に開館しました。小説に描かれた主人公3人の足跡を辿る展示に加え、まちづくりに関するさまざまな活動を支援する複合施設です。現在、第7回テーマ展示「日露戦争と明治のジャーナリズム4ハーグ万国平和会議」を開催中。

ファイブエルミシラン 鍋焼きうどん アサヒ

2013-05-31

後援:観光庁
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鍋焼きうどん アサヒ鍋焼きうどん アサヒ

懐かしい甘さを守り続ける

鍋焼きうどん アサヒ

松山市の中心部、銀天街商店街からちょっと入ったところに「アサヒ」はある。小路をのぞいた瞬間、白地に赤い文字で「アサヒ」と書かれたシンプルな看板が目に入ると、映画のセットの中にいるような錯覚をおぼえる。松山市民のみならず、観光客も数多く訪れる鍋焼きうどんの老舗である。

創業は昭和22年。現在、店を切り盛りするのは4代目の川﨑哲子さん。7口のガスコンロにアルミ製の小鍋をのっけて、次々とうどんを仕上げていく。出来上がったうどんを運んでくださるのはお父さんの正隆さんである。

鍋焼きうどんが出来上がるまで、おいなりさんをいただく。これは松山市民が教えてくれた〝うどんの待ち方〞である。一皿2個のいなり寿司を誰かとシェアしようか、それとも1人で2 個とも 食べようかと迷うところだが、お揚げが閉じ切らないほど中身が詰まっているので、お腹の空き具合と相談しながら決めたい。

「鍋が熱いので気をつけて」と言われながらアルミのフタをあけると、牛肉、ちくわ、お揚げ、ネギのシンプルな顔ぶれ。うどんは塩分の少ない「こしぬけ」麺でひたすら優しい。一口食べるとほっこりとした甘さが懐かしい。

「創業は戦後のモノ不足の時代です。甘いお菓子も今ほどなくて、鍋焼きうどんの甘いダシが愛されたのではないでしょうか。甘くてほっとする味を、ずっと変えないように作っています」と哲子さん。

子どもの頃、風邪をひいたときに食べた〝おうどん〞を思い出させてくれるアサヒである。

アサヒアサヒ
松山市湊町3-10-11
【T E L 】089-921-6470
【営業時間】10:00~17:00(売り切れまで)
【定休日】水曜日
鍋焼きうどん アサヒ
鍋焼きうどん 500円 (玉子入り 550円) いなり寿司 1個120円 一皿(2個) 220円

ビジョナリーな人たち 相原誠則 

2013-05-31

後援:観光庁
「にっぽん日和」は観光庁後援のコンテンツです

おもてなしの心から広がる人々の輪

老若男女の知恵と力が集結し、協力しあって生きる坂本屋

山深い松山市坂本地区。
四十五番札所・岩屋寺と四十六番札所・浄瑠璃寺の間に『坂本屋』がある。
ここに家族のように集う人々は、年輩は若輩に生きる知恵を授け、
若輩は年輩に生きる力を与えている。
お遍路さんの旅の疲れを癒すため、10年前に設けられたこの休憩所は、
この地に暮らす人々が、将来に活路を見出す場所でもあるのだ。

相原誠則

相原誠則(あいばら しげのり)

相原石材彫刻店の三代目。愛媛県より石施工部門における県第一人者認定の「愛媛マイスター」の称号を受け、職人の育成に関わる。
愛媛県武道館の外壁石積み工事や愛媛大学農学部にある愛媛県農業先駆者の碑など、数多くの作品がある。坂本屋の前に建つ「伊
予松山は明治が似合う」と記された、なにわの坊ちゃんこと石浜典夫氏の石碑も相原氏の作品。

『坂本屋』『坂本屋』

松山と高知を結ぶ土佐街道。別名、松山街道は古くは土佐の国府に通じる官道で、人々と物品が行き交う産業道路でもあり、そしてお遍路さんが通る道でもあった。
道中、最も勾配が急な難所は松山市と上浮穴郡久万高原町の境にある三坂峠。昭和40年代に修復されてもなお、幅が狭くきつい傾斜の〝山道〞がある峠である。

息を切らして山道を登り、見えてくるのが、今が平成の世であることを忘れるような古民家「坂本屋」だ。
「ようこそいらっしゃいました。お茶を煎れましょう」と笑顔で迎えてくれたのは船田トシ子さん。この民家の家主である。

「この家はな、50年ほど前までは遍路宿として使っておったけど、じいさんが104歳で亡くなってからは住む人もなくて傾いておってな。コンクリートで反対側から抑えておけばいいと言っておったんだけど(笑)、そうもいかなくてね」と語りはじめたのは御年8
0歳という中川重美さん。

「ちょっと寒いから火でも焚きましょう」と、囲炉裏に薪をくべたのは相原誠則さん。坂本屋の運営委員会会長である。
まるで日本昔ばなしの中に招き入れられたような気持ちになる。相原さんも中川さんも船田さんも、はじめてお会いする方々なのに、いつも一緒にお茶をいただく仲間のような気にもなる。それが坂本屋の〝お接待〞なのだ。

ホタル祭りに雛祭り
メンバーの発案が坂本屋を彩る四季

坂本屋は2003年に地域の文化遺産として活用するために、松山市の支援を受けNPO法人が修復し、翌2004年からお遍路さんの休憩所として運営されるようになった。

運営の中心となるのが、さきほど囲炉裏に火を熾してくれた相原誠則さんである。
「市役所の人やNPOの方々に協力してもらって、ここを立ち上げた最初のメンバーは15人くらいです。当時私は50歳前で、40代、5
0代のメンバーが中心となって、なんとか地域おこしをしたいとよく話し合っていたんです。そこで60代、70代の先輩たちも協力してくださって、ここに泊まってもらうのは無理だけれど、お遍路さんたちにお茶やお菓子をお出しすることはできるという話になったんです。まずこの家を建築家に見せたら、傾いてはいるけれど修繕できるという話でした。そこで市からも少しお金をいただいて、立ち上げに関わったメンバーたちが自分たちの力量を発揮して、この家を修繕したんです。何しろメンバーには大工、左官屋、石工がいましたからね(笑)。

また、このあたりはたくさんホタルが飛ぶので、5月下旬から6月にかけてはホタル祭りをやろうと。さらにここには庄屋の娘さんがお嫁入りしたときに持ってきた、170年くらい前の珍しいお雛様があるので、3月にはお雛祭りをやろうとか、いろいろなアイデアが出てきましてね。そんなイベントを数年続けていると、何かおもしろいことをやっているな、と話題になって、テレビや新聞などが紹介してくれたんです。そうなると、自分も参加したいという人が出てくる。立ち上げ当時は、そのうち老人ばかりになってしまうかなと思ったんです けれど、若い人も徐々に参加してくれるようになって、気づくと10年も続けることができました」

 坂本屋の利益は
さまざまな人たちとの交流である

坂本屋の立ち上げに関わった松山市役所の川﨑義昭さんは言う。
「約10年前、松山市の地域が主体となって取り組むまちおこしの呼び掛けに対して、いくつもの団体が手をあげましたが、こうやって地道に活動を10年も続けて来られたのは坂本屋だけです。本当にありがたいことです」
その理由は何だろう。〝お接待〞のお茶ひとつ沸かすにもガス代がかかる。〝坂本屋〞と刻印された大判焼きも。
「最初は経済的自立のために何か作ろうと、この大判焼きを作りました。でも結局、お金はいただいていません」という謙虚さだ。
坂本屋のパンフレット製作は、松山大学の教授がゼミの学生と共に応援してくれた。運営メンバーの中には学校の先生もいて、教え子の小学生や中学生がお接待を手伝ってくれることもある。
「現実的な運営資金は、お遍路さんの心付けと、運営メンバーの年会費3千円でまかなっています。地元の公民館の催しに協力することで、謝礼をいただくこともあります。それで運営費をなんとか捻出しています。最初は私たちの活動に協賛してくださる方々か
らも会費をいただこうと思ったのですが、会費をくださる方に常にご連絡したり、ご報告したりできるわけではない。それなのにお金だけいただくのは申し訳ないということでやめました。
でもね、ここには日本国中だけでなく、海外からもお客さんがやってきて、交流することができるんです。男性や女性、高齢者も学生さんも来ます。そこで私たちはいろいろな物の見方や価値観を知ることができます。あるいはここの運営メンバーと一緒に、冬は猪鍋をやったり、地元の野菜を持ち寄って料理を作ったり。ここに集う人たちの年齢構成は、会社で言えば新 入社員から中間管理職、そして引退した高齢者と、バランスよく揃っているんですね。皆、家のこと、仕事のことなどを話して、ときには悩み相談になることもあって賑やかです。気分転換にもなりますね。それが私たちにとって一番の〝収入〞ではないでしょうか」と相原さん。

日本中で少子高齢化が問題になっている現在、80歳の中川さんはミカン農園を1人で切り盛りし、「70歳を過ぎてしまいました」と言う船田さんは、山の麓の別棟で一人暮らしをしている。相原さん自身も石工としての技術を伝える後継者がいないという問題を抱えている。しかし、ここには年齢、性別を問わずに交流できる場があって、今年の春にも新たに30代の女性2人が参加する予定だと
いう。
「そうそう、若い人と話していると、年を取らないんですよ」と、嬉しそうに笑う船田さんの笑顔を見ていると思う。坂本屋が10年活動を続けて来られたのは、人を接待しているからではなく、自分たちが活き活きするための活動をしているからなのだ、と。
「ここだけでなく、公民館の活動もあれば、消防のメンバーもいます。気心が知れた仲間が、みんなで助け合っているんですよ」という相原さんの言葉には、小さいながらも煌めく希望の光が見えたのだった。

坂本屋右から相原誠則さん、船田トシ子さん、中川重美さん

◎木村の視点

木村の視点前もって連絡を入れていたとはいえ、訪ねていった私たちを笑顔と優しい言葉で迎えてくれた。「寒いでしょう」と囲炉裏に火を点けてもらい、お茶ばかりか大判焼きまでご馳走になった。それにしても、皆さんの表情のいいこと。

問いかけに答える相原さんの横でうなずく中川さんと船田さん。
その穏やかな姿を見ていて、暗闇の中で一本の蝋燭の灯が順に伝えられていくにつれ、周囲がだんだん明るくなっていくキャンドルサービスのように思えてきた。たくさんの人に分けても、灯は少しも暗くならないし、与えれば与えるほど、人の心に暖かい灯をともし次から次へと増殖をしていくのだろうな。震えな
がら訪ねた「坂本屋」からの帰り道、それほど寒さを感じなかったのは、私の心の中にも暖かい灯がともったのかもしれない。「心の身じたく」を整えねば!

にっぽん日和 愛媛 松山市 後編

2013-05-30

後援:観光庁
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絣の歴史は庶民の歴史

絣の歴史は庶民の歴史

藍色と白のコントラストが
美しい 伝統の伊予絣

絣の歴史は庶民の歴史十字文様や井桁文様など、紺色と白のコントラストだけで描く伊予絣。綿のもつ吸収性、通気性の高さから、明治、大正時代には農作業時の作業服として全国の農家に一気に広まりました。
伊予絣の生みの親は天明2年生まれの鍵谷カナ。藁葺き屋根の葺き替えのときに目にした、押竹を縛ったあとの斑模様に心惹かれて考案したとされます。庶民の生活の中から生まれた伊予絣ですが、近年は生活様式の変化と技術の継承人の減少により、事業として制作するのが1 軒のみという寂しい状況です。
伊予かすり会館には、江戸時代後期の地機から、機械織りとなった時代の高機、伊予絣ができるまでの工程などを見ることができます。

伊予かすり会館の総括支配人、仙波勝さん民芸伊予かすり民芸伊予かすり

伊予かすり会館の総括支配人、仙波勝さん。語り口は滑らかで、その内容は伊予絣の歴史のみならず、四国の民俗文化全般にまで及びます。

民芸伊予かすり会館
松山市久万の台1200

絣の歴史は庶民の歴史

絣の歴史は庶民の歴史

鎌倉時代の建築を現存
石手寺

愛媛県には四国八十八ヶ所霊場のうち、40 番~65 番の札所があり、石手寺は第51 番札所です。最盛期には七堂伽藍(七つの大きいお堂)と六十六坊(66 の僧の住居)を有した大寺院でした。永禄9 年(1566 年)に建物の大半を焼失するも、本堂、仁王門、三重塔は消失を免れ、鎌倉時代の建築を伝えるものとして、国宝・重要文化財に指定されています。

石手寺石手寺

松山を案内してくれた市の職員松山を案内してくれた市の職員。

左から

都市ブランド戦略課の

山内充さん、

小笠原啓介さん。
東京事務所の川﨑義昭さん。

召しませ甘味の中華そば召しませ甘味の中華そば

“瓢系” ラーメン

甘い味のラーメンスープと聞くと、口にするまで想像しがたいものですが、瓢太の中華そばはまったく違和感なく、なぜか懐かしい味です。「この地方は味噌も醤油も甘いから。チャーシューの煮汁も甘いんです。タレの作り方は企業秘密」と店主の加藤大さん。平日のお昼には近くに勤める人たちが数多く訪れ、休みの日は観光客が足を運ぶ「松山の味」です。

瓢太瓢太

瓢太
中華そば 600 円
チャーシューメン 750 円
松山市三番町6-1-10

三津の渡しで朝市へ三津の渡しで朝市へ三津の渡しで朝市へ

松山港内港地区の三津と港山のあいだ、約80mを結ぶ無料の渡し舟があります。はじまりは港山地区側にある港山城が築城された文明年間。城主が三津浜側にあった須崎の浜に、毎朝食糧を買い求めるために利用したといわれます。

実はこの水路、現在は市道高浜2号線の一部。午前7時から午後7時まで、年中無休の運行です。
船頭さんは市の職員です。

JALでいく

JALでいく羽田から8時発のJALに乗って、9時40分に松山空港着。早速フェリーで20分弱の興居島へ。寺坂さんの果樹園でいただいた「せとか」「甘平」「デコポン」の甘かったこと。その後食した坊っちゃん団子やタルトはもちろん、「瓢太」のラーメンや「アサヒ」のうどんも甘かった。しかも美味。そういえば市長も。もっとも市長の場合は甘い二枚目というだけではなく、ピリッとした一面もある。いずれにしても、甘いもの好きの私にとっては至福のひと時であった。帰宅したあと、我が家で伊予のみかんを食べながら松山談議に花が咲いたことはいうまでも無い。 木村政雄

にっぽん日和 愛媛 松山市 中編

2013-05-29

後援:観光庁
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坊っちゃんが生きた松山坊っちゃんが生きた松山

 

坊っちゃんが生きた松山

明治の文豪に名著を書かせた
歴史と文学のまち

市街中心部を走る「坊っちゃん列車」はレトロな装い。粋な制服を身につけた車掌さんが市内を案内し、からくり時計には「坊っちゃん」でお馴染みの“赤シャツ” “うらなり” “マドンナ”たちが勢揃い。坊っちゃん団子を作り続ける和菓子屋さんには直筆の書があり、市内の野球場の名前は「坊っちゃんスタジアム」。松山市内のいたるところに文豪、夏目漱石の足跡があります。
旧制松山中学(現・松山東高校)の英語教師として夏目漱石が赴任したのは明治28 年。道後温泉本館が、木の香りも新しい建物だった時代です。松山の田舎ぶりをさんざんからかった江戸っ子の漱石ですが、この地の人々は「坊っちゃん」をこよなく愛しています。それは松山で過ごしたのがたった1 年にもかかわらず、松山をモデルとして、現代の教科書にも採用される文学を残してくれたからかも知れません。

坊っちゃん列車坊っちゃん列車

松山市駅から古町、道後温泉などを巡り、観光客の目を楽しませる「坊っちゃん列車」。明治21年から67年間にわたって活躍した蒸気機関車の復刻版です。

坊っちゃんカラクリ時計坊っちゃんカラクリ時計

道後温泉の正面にあるカラクリ時計。
8時から22時の間、1時間ごとに「坊っちゃん」の登場人物があらわれます。(特別期間中は30分ごと)

「坊ちゃん」「坊っちゃん」のメンバーが温かくお迎えします。

ここが元祖「坊っちゃん団子」ここが元祖「坊っちゃん団子」

ここが元祖「坊っちゃん団子」ここが元祖「坊っちゃん団子」

創業明治16年。小説「坊っちゃん」に登場する団子屋のモデルであり、漱石も実際に食べたと記録されている元祖・坊っちゃん団子屋です。

「創業当時から、変わらぬ味を守っています」というのは4代目女将の相原文子さん。

5代目となる美香さんと仲良く店を切り盛りします。

松山で俳人になる

松山で俳人になる松山で俳人になる松山で俳人になる

子規・漱石・極堂生誕100年祭の記念事業として、好評を得た俳句ポストを昭和43年から市内のさまざまな場所に設置しています。道後温泉のホテル、旅館、四国八十八ヶ所で市内にある8ヵ寺など、92ヵ所に設置されていますので、ポストを見つけて旅の思い出に投句してみてはどうですか。


かんきつ王国は橙色

「鳥に食べられないように注意を払ったり、果皮の日焼け防止や傷を防ぐために黒い布をかぶせたり、みかんは手をかけて育つんだよ。
燃料価格の高騰もハウス栽培には厳しいからね」と話す寺坂末吉さん。松山市の消防団長も務めながら、奥さんと夫婦2人3脚
で、一つひとつ丁寧に、手間ひまかけた愛情いっぱいのみかん作りに精を出します。

かんきつ王国は橙色

温暖な島々でスクスクと
育ちのいい愛媛みかん

松山の果物屋さんをのぞくと、普段食べるみかんよりも粒が大きめのさまざまな形。オレンジ色と一言で言っても、これほどまでの種類があるのかと驚きます。最近人気の「紅まどんな」は、“ゼリーのようなプルプル感”。「せとか」はいくつものみかん品種のいいとこ取りをして生まれました。2007 年に新種登録されたのが「甘平」で、未だ流通する数も少ないので高価です。瀬戸内海の温暖な気候で育つ愛媛みかん、ハウスみかんも含めると、1 年を通じて元気にしてくれる果物です。

紅まどんな紅まどんな

愛媛県で誕生した新品種です。マドンナは「坊っちゃん」に登場する女性の愛称でもあります。

「紅まどんな」収穫量
市町別シェア
①松山市 34.0% ②伊予市 20.0%
③今治市 16.9% ④砥部町 15.0%

せとかせとか

香りや食味の良い柑橘を掛け合わせて生まれた新品種。自然の風に吹かれて育った逸品です。

「せとか」収穫量
市町別シェア ①松山市 33.2% ②八幡浜市 17.4% ③今治市 17.2% ④宇和島市 8.2%

甘平甘平

薄い外皮の中に、果肉がギッシリ!

シャキッとした食感と甘さが特徴。
せとかと肩を並べる高級柑橘です。

デコポンデコポン

へたの部分が凸状にでっぱっている

デコポン。

正式名称は

「不知火」です。

高い糖度が人気の秘密。

伊予柑伊予柑

温州みかんよりも皮は厚めで大きめ、ジューシーで甘い伊予柑は、興居島が主産地です。

「伊予柑」収穫量
市町別シェア
①松山市 49.2% ②八幡浜市 17.8%
③今治市 15.4% ④宇和島市 5.4%

はるかはるか

キャッチフレーズは「見た目を裏切る甘さ」。

ひと噛みすると優しい甘さが口に広がります。

かんきつ王国は橙色蛇口からジュースは本当だった!

愛媛では青い蛇口から水が、赤い蛇口からはお湯が、橙色の蛇口からはみかんジュースが出るという都市伝説があります。ここ、ぎんこい市場の蛇口からは1杯100円のみかんジュースが出ます。

ぎんこい市場 松山市湊町4-8-3

“かんきつ王国”愛媛県

愛媛県では、現在、温州みかんやいよかんに加え、甘平、せとかなどの新しい柑橘の生産など、バランスのとれた産地です。平成22年度のかんきつ類の生産量では全国第1位となりました。

本誌でご紹介をした松山市の「せとか」の収穫量は市町別シェアで見ると、33.2%で1位となっています。この他、「紅まどんな」
34.0%(1位)、「伊予柑」49.2%(1位)、「デコポン」17.8%(2位)、「甘平」10.7%(4位)となっています。

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